スタッフ日記[2024]

[文 / 益田(制作)]



  • 3/28

再生可能エネルギーTFの電子透かし事件、なんというか失笑してしまうな。

千年に一度の大地震に際し、不運に不運が重なって大事故を起こしたが、それでもなお一人の死者も出さなかった原発。ベースロードたり得、CO2排出などの側面から見ても、現状この上ない効率的発電法である原発。 朝日新聞のような左翼系(と言うか売国)メディアがその危険性を煽りに煽り、世論を一定数誘導した。 結果、日本の電力行政は再生可能エネルギー、とりわけ太陽光発電への依存度を高め、(半分反社のような)関係業界に多額の補助金をばら撒いた。

森林を破壊し、国土に禿山を乱立させ、全国民に賦課金と言う負担を強制し、電気料金を高騰させ、電力と言う基本インフラを脆弱化させた。 太陽光発電装置のサプライチェーンから中国を外すことは現状難しいようで、数十兆とも言われる国富を流出させた。 原発動かしときゃ良いだけだったのに、愚の骨頂である。 コロナ騒ぎと構図は瓜二つだ。

ここまで平明な論理を無視して進められた強引な施策である。 推進者が「杜撰」であることは容易に想像できたが、そのバカ工作員、国絡みの会議に中国国営企業の電子透かしが入ったままの資料を提出したらしい。 工作活動の是非などはさておき、なんとまあ無能であることか。 前近代なら親分に車裂きの刑か何かに処されたかもしれない。

しかしあの河野さんという大臣、単なる売国奴なのか真性のうつけ者なのか。どのみち国政に携わらせてはいけない人物だろう(恐るべきことに、総理大臣の有力候補らしい)。 親子揃って日本史に未来永劫の汚名を残すことは不可避と思われる。

日本への工作活動、中国やロシアのような国から見たら、容易過ぎて本当に笑いが止まらなかったろうな。この国滅ぼすのに銃火は要らない。 アメリカとかもこの民族の知能の低さに呆れ、近い将来、同盟関係を希薄化していくことも考えているかも。政府系の会議に中国の工作員が紛れ込んでいるような国との情報共有なんて怖い。私ならそう思う。

反原発キャンペーンを特定のメディアが行い、太陽光発電の推進によって日本の電力インフラは脆弱化し、国富は(特に中国に)流出(オマケに国土は荒廃)し、電気料金の高騰化によって日本人は貧困化し、福島の処理水問題では中国政府が(常軌を逸した)強い反発を示した。 全ての答え合わせがここに詰まっている。 今の日本人の持つべき世間知は、あの手の国(&その尖兵たる国内メディア・政党)の「逆」を常に張ることが正解である、ということ。 こんな簡単な答えに何故たどり着けぬか。理解に苦しむ。




  • 3/27

公務員になった若者が、同僚などと浴びるほどの酒を酌み交わしたところで、そこに友情は芽生えにくかろう。 何故なら、大方そこにたどり着いた動機が「生存(保身)」であるから。 天上でなく、地の底での邂逅であるから。 我が心に妥協を許さず、意志を守り続けた果てに出会う人なら、親友になれる。 友人は我々の心の中にいる。友人を得る方法とは、意志的に生きること。






  • 3/23

当たり前だが、人間は動機で動く(動機と言うぐらいなのだから)。動機が無ければ動かない。

だから政治家に「利権政治を止めろ」と言っても、そこに動機が無ければ彼らはそれを止めてくれない。 今まで、それ(利権確保)を思い留まるほどのインセンティブが彼らには見えなかった。

その利権の恩恵に与れぬ(大多数の)人々が、彼らを止める方法があるのかと言うと、あるにはある。 それは投票行動。 落選の懸念が脳裏を過ぎれば、それは確実に動機となり得る。 今の政権中枢は、ようやくその懸念を持ちつつあるが、もう手遅れかと思う。 政治にとって手遅れである以上に、有権者がその懸念を植えつけるのが遅すぎた。




  • 3/19

Nashvilleギター(チューニング)について。 そういうギターが存在しているわけではなく、単にチューニングのことを言う。ギターの3~6弦をオクターブ上にチューニングしたもの。当然普通のゲージのギター弦では不可能なので、それ用の弦を用いる。12弦ギターの複弦のみを張ったギターと考えれば良い。低音弦が無いので、高音に寄った特殊な響きがある。

今作っている曲にNashvilleギターを使いたいと思っている。それもプログラミングで再現したい。実器を用意するのは如何にも面倒臭い。 ギターに限らないが、実器はとかく面倒だ。ギターの弦は時間と共に響きが失われて行くのだが、Nashvilleのような独特のレゾナンスを表現するならなおのこと。 一度のオケ作りのために弦張り替える根気が無い。

プログラミングでどうやって再現するか。 一応「Nashville Guitar」みたいな(名称の)音色は存在していて、私は使わないけど、低音部分にオクターブ上のサンプルが当てられていたりするのだろう。だとするとちょっと荒っぽい仕様だ。 私は一旦普通のギター用のパート(譜面)を作った上で、3~6弦部分をオクターブ上にシフトしようと思っている。 そういうNoteを組んでアコギ系の音色を当てたい。

以前にもやったことがあるのだが、3~6弦部分の音をオクターブ上げると、同一音高(異弦同音)が大量に生じてしまう。 サンプラーとかって大抵同一音の同時発音ぐらいできるのだけど、ピッチが完璧に揃っていて、うねりが発生せず、やや嘘臭い。 ギターって楽器は構造上、開放弦でチューニングを合わせても、ハイポジションに行くに従って若干音程が狂うようになっている。 トラック分けて同一音の片方のピッチベンド弄るとか、回避法もあるにはあるけど、そこまでするかは迷うところ。








  • 3/18

自民党の世耕さんという方がいわゆる政倫審に登場し、あれこれと述べていたのだが、ちょっとした違和感を覚えたもので、それについてのメモ。

態度の源泉を知りたくて経歴を拝見したのだが、イマイチよく分からない。 強いて言うなら「ボストン大学コミュニケーション学部に留学」と言う経験の影響が濃かろうか。 コミュニケーション学部のカリキュラムを知らないが、その名の通りであるのなら、対人の振る舞いを学ぶ場所であったろうか。

アメリカ人(西洋人)は、言語に価値を置く。キリスト教では先ずはじめにロゴスがあると言う。 当然ながらディベート・ダイアローグと言ったものに重きを置くし、非論理を恥とする。 そして自立・自己の確立を人間としての必須の要件とし、子供の教育などにおいても「負けない精神」を叩き込む。 こういうのを美徳とする人らである。

世耕さんはアメリカでその気分を学び取ったろうか。 しかし日本人らしく、精神の基底に愛や正直さ(日本語のそれと言うより英語のhonesty)が希薄らしいことが見て取れる。 異常者ではなく、平均的日本人の範疇なのだろう。

愛や正直さを素地とせぬ精神の、上辺だけにアメリカ式のディベート技術や負けを嫌う空気を吹き込むと、ああいう人物が成立するということだろうか。 引っ張り出された場所がいわば弾劾の場だったので、場違い感が甚だしかった。 「不評であったろう」と思ったので、世間の声を見てみたが、大方予想通り。 自民党の国対は、議場で負けなかったばかりに勝負に負けるような人物を不用意に晒し過ぎなのではないか。野党に狙われているように思える。

物事の成立とは微妙な条件に拠るもので、例えば歌手とか一つ取っても「この人、もう少し歌が下手だったら売れたかもしれないのに」とか言う、不思議な惜しまれ方をする人物がいたりする。






  • 3/14

自民党の懇親会とやらで行われたという、破廉恥行為が話題となっている。 私は基本的に政治嫌いで、平素関心も薄いのだが、本当に最近の彼らは、私にモノを考える切欠を与えてくれる。

清潔ぶって「破廉恥行為など怪しからん」などと言うつもりはない。私にだって性欲はある。 ただ、懇親会なんかで半裸のダンサーに絡まれて嬉しいか?と問われるなら否である。 性欲と言うものは、大勢の中、飯食いながら処理するようなものではない。

随分昔の話だが、大蔵官僚が「ノーパンしゃぶしゃぶ」で接待を受けたとか何とか言う醜聞が世間を騒がせたことがある。 詳細は知らないし調べる気もないが、ノーパンしゃぶしゃぶが引っかかる。 私はノーパンしゃぶしゃにとやらに行ったことは無いが、どういうものか何となく想像がつく。 要するに、ウェイトレスの女性が露出度の高い服装などで給仕を行うのだろう。

私が思うのは「飯食う時にそんなことしてもらって嬉しいか?」ということ。 私はしゃぶしゃぶも好きだし性欲もあるが、食欲と性欲を一緒くたに満たすような、便所で弁当食うような行為を「気持ち悪い」と感じる。 そんな接待を喜ぶ御仁は、これを感じる主体が存在しないのではないか。

人間には理性と傾向性が混在する。 コンビニの雑誌コーナーの前を横切った際、視界に入った表紙に目を奪われる感覚があったりする。 私の中にある傾向性が、表紙の肌色に引き付けられたらしい。 そして、このことに気付き、解釈を自分に与える自分がいる。これが理性である。 私の中にいる本当の私と言って良い。 日々音楽作品を作り続けているのも、このテキストを打っているのもソイツである。

この「自分の中の自分」が希薄、あるいは絶無である者がいる。 外形が人間の姿であるから、人間と区別が付きにくいが、彼らは本当は人類の一員ではない。一員のフリをして社会に紛れ込んでいるだけ。

懇親会で半裸のダンサーに絡まれて喜んでいるような人間は、本質的に人間の条件を満たしていないのではないか。 私はそんなの全く楽しいと思わないぞ。 そんな会合に出席するなど、本当に時間の浪費だ。もっと面白いことすれば良いのに。




  • 3/13

国会での政府側の答弁を聞いていると、「ちょっとこの人らはヤバいな」といった感想が頭をもたげる。 例の少子化対策支援金について、野党の「保険料の目的外使用でないか」と言う詰問に対し「既に介護保険料のケースなども存在する」云々と回答していた。 「この度初めてのケースでない」ということかと思うが、スピード違反で捕まった人が「法定速度を超えた車などいくらもある」というようなもの。 一国の総理大臣がこれを言う。

「目的外使用」云々というのは、まだマイルドな表現で、単刀直入に言えば「違法性が濃い」と言うことである。 現政権は、無理筋に金を掻き集めたいあまり、単純な論理を受け付けなくなっている。 これは人としての末期症状である。

このように、議論というのは、片方の正論にもう片方が口を噤むようなケースは稀である。 詭弁を省みなければ際限なく(愚にもつかぬことを)言い返すことはできるから。 議論と言うのは、論点などを双方が共有する前提があって初めて成立する。 では「議論の成立せぬ相手」とは何か。 私はそれを人外の者と考えている。

人外の者にとって「言葉」とは、思考したり論理を交わすためのものでなく、「自身に有利な状況を作り出すためのもの」なのである。 この傾向こそがいわゆるパーソナリティー障害の顕著な特徴で、「人類の敵」が尻尾を見せている状態と言える。 彼らは、脳の古層・感覚所与優位、反共感、そういった一般人類とは明らかに違う特徴を持つ。

私は、例えば現総理大臣を明確なパーソナリティー障害者だとは見做していないが、保身を優先する(=共同体感覚を欠く)あまり、そちら側に向かいつつあるのだと捉えている。 歴史の大きな流れを俯瞰するに、気の毒だが淘汰の対象だろう。 私は今の日本人の大多数がこの「淘汰の対象」だと思っているが。 崖に向かって着々と歩みを進めている。






  • 3/12

医師会の動きなどを眺めていると、不思議に思うことがある。 彼らは、悪く言えば現体制の寄生者なわけだが、この体制に、未来永劫続いて欲しいとは思わないのだろうか。

彼らのほとんど際限の無い欲望は、宿主を食い潰そうとしている。 今の医療・社会保障制度は、どう考えても永続不可能で、近い将来破滅的な終わりを迎えることは間違いないと言うに。 待遇改善をいまだに要求し続けている姿勢を、不思議とすら感じてしまうわけである。 天然痘ウイルスが滅びた(常在化できなかった)のは、奴らが宿主を殺し尽くすようなアホだったからで、彼らも蓋しそうなるであろう。

まあこういうことか。 体制も絶望的な段階に到達すると、寄生者らも、養分を吸い続けることより、火事場泥棒を働くことを優先するようになるのだろう。 再生エネルギー界隈とか見ても、そんな感じに見える。 一昔前の、公共事業依存型のゼネコンと政治の癒着構造とか、あれはあれで問題があるが、まだ今より未来を思い描く感覚があったような気がする。




  • 3/5

因果と言う、この何人も逃れられないものについて。

私はこの社会(現在の日本)は、滅びる、あるいはそれに近いような壊滅状態に陥ると踏んでいる。 それが5年後なのか10年後なのか、そういうことは分からない(100年は持たないだろう)。 理由を一言で言うのも難しいが、要するにそれだけの業を尽くしてきた。 例えば先般のあのコロナ騒動では、人間に備わっている人権は無視され、他者に何かを要求することが是とされた。 神をも恐れぬ暴挙である。 この集団が歓迎されるほど、神は、この宇宙は寛大でない。

必ずや名を正さんか、はじめに言(ロゴス)ありき。 この不正集団の中では、ごく初歩的な論理・平明な正義が無視された。 ここまでの不正義を尽くした者たちが、その業によって苦しめられぬはずはない。 実際あの騒動の後、目に見えて非婚化・少子化は加速し、単純刑事犯罪が増えているそうだ。 悪が容認される世界なのだから不思議はない。

自己の保身のみに走る者たちが、例えばこんにちの政治の腐敗すらも招いた。 政治が腐っているのは言うまでもないが、それを容認してきた有権者の側だって腐りきっていた。 国民の大部があの騒ぎを容認、あまつさえ率先し、野党は政府による狂気とも言える対策を「手緩い」と批判した。 そして、その果報としての、こんにちの円安・増税・物価高を、国民自らが呪っている。 救いがたい。

悪因苦果。今この集団は、自らの醜さに苦しめられている。 まあ物事とは基本的にそういうもの。苦楽は、自らの業が招くもの。一つの例外も無い。




  • 3/4

私は現総理大臣に同情的だ。どう見ても悪人には見えず、職場が同じであるならさぞかし無害な同僚、あるいは上司・部下だろう。彼自身、人生において、今ほど嫌われた経験もないのではないか。

ただ、立場に恋々とするところはいただけない。 彼の就いているポストが「悪い人でない」程度の理由で任されるべきものでないから。私が彼の相談相手なら「お辞めになること」を勧める。 これ以上ストレスを抱え込ませるのも酷だ。

彼はがんばっている。政治不信を払拭するため、自身の属する派閥を解体し、自ら政治倫理審査会とやらに出席した。空前のことであるという。 できることを精一杯やっているのだろう。そもそも彼は今回の不祥事の主犯・当事者ではない。たまたまそのタイミングで総理大臣職にあっただけ。もっと言えば、斜陽・衰勢にある自公政権のツケを払わされているだけ。

彼の党内での権力基盤は脆弱であった。属する派閥は少数派で、有力派閥の後押しを得て総理の座に就いた。このこと一つ取っても、如何に「無害」だと見做されていたか想像できる。上記派閥解散の件についても、主犯である最大派閥に「解散命令」を出せない、と言う苦しい立場を伺わせる。審査会の件についても、最大派閥の有力者に「出席しろ」と命じることができないからこそ、自らが先頭に立って出席した。痛ましい。

政権の支持率が危機的状況であると言う。これは国民と言う恋人に別れを切り出されていると言うこと。 きっと彼はこの原因を「政治と金の問題」などに集約して捉えているだろう。 しかし、恋人同士が別れる、あるいは夫婦が離婚する時、そこには理由が存在するのだけど、必ずしも具体的な事件を原因としているわけではない。と言うか、事件というものは、契機となるから原因と錯覚されやすいだけ。

人間関係の決裂は、当事者らの思考のプロセス同士が「合わない」ことに起因している。これは「事件」のような単純明快なものではない。美が複雑であるのと似ている。

恋人に別れを突きつけられた男が「謝る」ことに、事態を修復する能力は薄い。 相手がその人に魅力を感じているのであれば、単なるミステイクの一つや二つ、何のことはない。以後気をつけてもらえば済むだけのことである。 謝って許された事例があるのなら、それは別れを突きつけられたのではなく、利益確保のために、相手から揺さぶられたのだろう。謝れば更なる泥沼が待つだけ。韓国外交で知っただろう。

「国民に謝罪し、信頼を回復したい」、「政治不信を払拭したい」とのたまう総理大臣。 恋愛に例えるなら「俺が悪かったから謝る」とか「俺を好きでないと言うなら、俺は努力してお前好みの男に変わってみせる」とか言う男のようなもの。空しいでしょう?無理に決まっているから。

その人の思考回路、映している現実こそが「お呼びでない」と言われている。気の毒だが、この状況を彼の望む形に再構築することは不可能だ。






  • 2/27

リコーダーやパーカッションなどで作った新しい曲があるのだが、それを聴きながら考えたことのメモ。 私はそもそもスキッフルとかそういう、素朴な音色・シンプルな編成が好きである。

その曲は、リコーダーや和楽器などを使った、リズム以外全部で4パートの編成。4パートといっても、その全部が単音楽器なので、バッキングとしては実に薄い。 全体的にポリフォニーと言うか、(和声音楽でなく)対位法的な音の配置になっている。 音の構成がシンプルであることと、楽器の音色が素朴であること、両方がツボを刺激しているようだ。 私はこのツボをもう少し掘り下げて見たいと思っている。

リコーダーはどれも2オクターブ強の音域があるのだが、その狭い音域をカバーするためか、各音域ごとにバリエーションがある。Wikipediaにはガークラインからサブ・サブ・コントラバスまで実に十種が紹介されているが、そのバリエーションには仕様上のルールのようなものがある。 基本的に4度あるいは5度おきにC管・F管が存在しているので、ガークラインより上だってサブ・サブ・コントラバスより下だって作ること自体は可能だろう。 因みに、C・F以外の管も存在はしている。

十種存在すると言ったが、実用されるのはそのうちのせいぜい五種類前後ではないかと思われる。 サブ・サブ・コントラバスなんて、存在こそすれど、一般に流通していない(使用されていない)だろう。 その辺の楽器屋などはまず扱っていないと思われる。

リコーダー音源を捜してみたが、満足な結果は得られなかった。 まず各種のバリエーションを取り揃えるのが難しい。音源類が存在していないものが多い。 ソプラノ・アルトあたりは割りと見られたのだが、上の十種のうち、フリー・有料合わせてもせいぜい4種類くらいしか無いようだった。 各音域のリコーダーを揃えたアンサンブルを実現しようと思うなら、実器と奏者を揃えないと現状難しいのかもしれない。

リコーダーの音色にある種のノスタルジーを感じるのは、記憶が関係しているのだろう。だから、例えばアメリカ人にこの感傷はほとんど無いのではないかと思う。アメリカの教育カリキュラムについて詳しいわけではないが。 リコーダーに相当する楽器があったりするのだろうか。




  • 2/21

「面食い」と言う人間の属性がある。人の見目(容姿)を選り好む者。 大抵そこで問われる容姿は一般に美男・美女とされるもの。 面食いは、割りとそれを自称する人までいて、特段恥ずべきこととは思われていないようだ。

何故容姿を選り好むか。 器量の良さに(動物的な)リビドーを感じるのだろうか。美醜に絶対的基準など無いというに(世俗的基準ならある)。 あるいは見目麗しい異性を連れて歩くと、周囲の羨望を買えるから、ってところだろうか。

仮にそういうものが動機であった場合、それは相手の容姿によって、ある得を拾っている。つまり動機は収奪である。 「結婚相手は金持ちに限る」とか言っているのと本質的には変わらないのだが、奪うものが直接的に物質でないから、とりあえず相手には気付かれ難い。

与える機微を一切持たない境界性人格障害者は、見た目が良くなる傾向にあるそうだ。 不思議である。境界例は脳機能(の欠損)によって起こっているのだから、顔の表面とは関係ないはずだ。 でもそうであるらしい。 つまり一種の収斂進化と言うか、収奪の動機が原動力となって、結果容姿まで優れてしまうのだろう。 確かに俗世間にて、美貌によって得られるものは多い。

歌手志望者の中には「歌手になるのに容姿は重要か?」が気になる人が多いらしい。 それに答えるなら「重要である」と言わざるを得ない。 音楽商品にある種類の緊張感を持たせようと思うなら、演者の容姿は不可欠である。 商品価値に換算しているのだから、ハッキリとこれは「得」を拾うことを意味している。 私はこういう作業を続けてきたから、人生においてここに気付くのも割かし早かった。

得を拾うことによって成立したカップルは、その得が得られなくなる(釣り合わなくなる)ことが即ち関係の終わりとなる。 つまりそこに永遠は無い。 一年続く関係であろうが、百年続く関係であろうが、それは同じ。終わりが訪れる前に持ち時間を使い切ってしまうことと永遠とは、全く別のもの。 互いに気持ちが冷め切った老夫婦が離婚しないのは、別れた後に待っているであろう日々に、今以上を期待できないからに過ぎない。

私は「永遠であるもの」以外にさしたる興味がない。例えば愛や夢であるとか、友情であるとか。 今の私の周りは、良い具合に永遠なるもので固められてきた。 私が自分の人生、諸判断を間違いでなかったと確信できる所以である。




  • 2/20

Lavender Kite Audio Research(NTS Radio)がプレイリストを作成したとのこと。 番組公式ってことなのだろうか。一応お知らせしておきます。




内閣支持(不支持)率がしばしば話題になるが、発足以来最低の14%を記録したそうだ。 ニュースのコメント欄を眺めていると「まだ14%もあるのが驚き」とか「誰が支持してるんだ(その14%とは誰だ)」とか言う意見が見られるが、私はここについてはさほどの不思議を感じない。

だってそうだろう。 仮に支持率0%なら、彼らは日々何のために働いているのだ。 全方位を敵に回すために奔走していることになるわけだが、そんなはずはない。

14%だろうと、支持している人は確実にいるのである。 支持しているのだから、その人たちは現体制によって何らかの「得」をしている。これは間違いない。 その得をしている少数のために、それ以外の大多数が迷惑していると言うだけ。

その証拠に、支持率が下がってくると「減税」だの「賃上げ」だの言い出すではないか。 あれは「そう怒るなよ。お前らにも得させてやるってば」と懐柔にかかっているのである。 そこで日本人はその精神を憎むでなく、提示された金額の些少さに立腹している。 だから終わらない。




  • 2/18

ゲームアプリのレビューを読んでいると、そこにはさまざまな不満が書き込まれている。 デベロッパー側は当然それらに目を通しているだろうが、意見を採用し、右往左往してFIX版をこさえるかどうかはまた別であろう。 ではデベロッパーは何を指針とするか。彼らには詳細なプレイデータの蓄積があるはずで、つまりはそれである。 人が「口にすること」でなく「行動」こそが判断の指針となる。 これを顕示選好とも呼ぶ。


日本の国策の、老人偏重が問題視されることは、近年頓に増えてきたが、それについて私は、手放しで全面賛成し難い気分を持っている。

少子化対策法案について、怒りのコメントがSNSなどに溢れていたのだが、そのほとんどの骨子は、やはり上の老人偏重を基礎としたようなもの。 若者の意見が無視された、と言うような。

高齢化と言われるが、65歳以上の人口は確か30%を超えていない。 日本のいわゆる現役層は、圧倒的少数者と言うほどではない。 ただし、投票行動におけるそれは別である。 若者は選挙に行かず、老人は行く。 誰しもが持っている権利だが、それを行使する意志のない者は、それを「持たない」と見做されてしまう。 私はこれは仕方ないと思う。

いくらSNSやネットニュースのコメント欄で騒ごうと、電話アンケートで現体制への不満を表明しようと、若者は選挙に行かないんだもの。 現体制(自公政権)を長期安定政権にしたのは、投票行動を放棄してきた人たちでもある。

私は「だから選挙に行け」と思うわけではない。 日本の若者について、待遇一つとっても現状は相応であると思うだけだ。 酔っ払って上司や会社に文句を垂れ、「こんな会社辞めたい」と嘆くサラリーマンが、本当にその会社を辞めた後の世界を想像できるのであれば、明日にでも辞表を提出できるはず。すれば給料や会社員としての地位など、多くのものを失うがね。 彼がそうしないのは、その人が「不満を述べつつ現状に甘んじる人」と言うその人像に過不足無く収まっているからで、要は現状を満更でもないと思っているから。 想像力の限界がその人の限界である。

日頃仕事に行っているのだから、休みの日に選挙になんて行ってられない、のでしょうよ。 現状への不満とは、休日の数刻ばかりの睡眠時間と引き合うほどのものでない。 だから現状に甘んじている。

政治に不満を表明しつつ、現状を容認する人。それは消極的であっても支持者だろう。 政治家は政治業で自分を支えているプロである。 ぶちまけられた不満の声は当然知っているだろうが、顕示選好こそを重視するのであれば、その声は無視できるもの。過度に構うと落選しかねない。 若者は、現状を打破しようと思うなら、とりあえず選挙に行くしかない。 あるいは暴力革命でも起こすとか。 選挙にすら行かない人が、そんな面倒臭いことするわけないよね。




  • 2/17

セールスマンの勧めるがまま際限もなく散財する女房が、それを旦那に叱られた。 旦那の方に理があるのであれば、以来安易に買い求める行為を慎むべきだが、困ったことに女房、売り子に嫌われるのが怖くて、それを言い出せない。 旦那と売り子との両方に良い顔をするため、女は嘘で取り繕う。 「買い与えているのは子供の教育に必要なものだ」などと。

八方美人を続けているうちに売りつけられる商品は高直となり、いつしか家計は火の車、破産寸前の窮地に陥ってしまった。 買い続けようにも、銀行預金の残高は底を付き、女は借金に手を染め始めた。その額は途方も無いものになりつつある。 ついでにそのセールスマン、家計を省みることなく奮発してくれる女房への礼に、些少ばかりと見返りを袖の下にねじ込んでくるが、女はそれを「満更でもない」と秘かに思っている。

この状況を打開する正解があるとすれば、女房は旦那に、正直に現状を申し開き、以後方針を改めるしかない。 でもそれはできない。 できるような人なら、その窮地にそもそも陥っていない。

誰にでも良い顔をしたがるのは、その人が保身ばかりを考える臆病者だから。 その人に「与える機微」は無いが、安全策として何かを賂うことはある。 その生き方で今日まで生きて来れた者が、ある日を境に別人になるわけがない。 薄々全てを知りつつある旦那の脳裏には「離縁」がチラついているのだが、それは現実の上で容易でない。またそんな相手を選んだ責めはその旦那にもある。 とにもかくにも、女房に対する信頼は地に落ちている。

以上は、今の日本でリアルタイムで起こっていること。 私はその旦那に「一旦借金は整理し、女房とは離婚して、新しい生活を築くしかないんじゃない?」と思っている。




  • 2/16

政治がここまで肥大化した原因は、自由・自己判断を忌避する日本人の依存体質にある。 だからしょうがないと言えばそうだが、共依存に陥るカップルがしばしば破綻するように、依存と言う引力は実に脆い。

少子化対策法案(支援金制度)が、逆風の中、閣議決定されたそうだ。 このことについて、無論私は反対と言うか論外な内容だと思っているが、同時に「そりゃこうなるよね」と言う感想もある。

言われているように、支援金とはそれを騙った税金そのものであるが、政治の本質がかようである以上、金が足りなければ何らかの口実を見つけて増税に走るに決まっている。 政権の支持率は危機的水準にあるが、「なのに」この強行ではなく、「だから」この強行なのである。 このままでは次の選挙が悲惨な結果になりかねないのだから、がんばって支援者の支持を取り付けねばならない。 その行動は全体最適に悖るわけだが、いわゆる浮動票を脅威とする以上に、目に見える支援者の支持は緊要で、彼ら(政治家)は彼らで我先にと生き残りに必死である(今の厚労相とかその象徴のような人選)。 そういう者らを政治の中枢に据えてきた社会の末路だ。

今の日本国に何故(緊急に)金が無いか。元々この国の財政は危機的であったのではあるが、要はコロナの馬鹿騒ぎで戦争レベルの公金を蕩尽したから。 これは増税が正しいか否かなど全く関係の無い自然の摂理のようなもので、必要分を吸収するまで終わらない。 アホが愚行の限りを尽くした当然の帰結。痛みによって何かを学んでくれ。 まあその前に、この因果関係が周知となっていないのが若干気になるが。




  • 2/15

安土桃山時代が、後世の我々から見てかように煌びやかであるのは、為政者の気分の投影であろう。 絢爛豪華な茶器や建築物のイメージだけではない。 検証できないが、きっと当時の人々も、我々と同じように時代を映したろう。

今の日本の停滞も同じで、経済成長がどうだとか人口動態(少子化)がどうだと言われているが、要は人の気分。今の政治の後ろ向きな気分は、時代に反映している。

ダボス会議でのミレイ、アルゼンチン大統領のスピーチを拝聴した。 実に感動的な内容で、おそらく歴史に残る演説であろう。 日本の政治家諸氏に聞かせてやりたいが、理解できるかどうか。人は、気分に沿わない何かに対し、理解の窓を閉じてしまう。

「感動的」などと言うが、内容はごく当たり前・常識的なものに過ぎなず、歴史的事実とも矛盾しない。 あれで目を覚ます人が続出することに期待したい。 おそらくアルゼンチンは今後、奇跡・奇観のような成長を遂げるはずだ。

ついでに、ミレイ氏は国の政策において「無償化」と言うワードを禁句としたらしい。 無償化などまやかしで、その実「税負担化」に過ぎないからだろう。 「教育無償化」とか「医療無償化」とか、それらは即ち関連団体への利益誘導で、要は公共事業(・利権拡大)の口実である。 それによって潤った団体は、政治にその富を還流させる。 「悪事」と言うより、このスキームこそが政治となっている。

「それは悪事であるから止めさせねば」と言うのも容易でない。 例えば江戸時代の侍(武家階級)は基本的に無為徒食者たちであるが、「百姓に寄生するのを止めよ」と言うのであれば、体制そのものを覆すような革命的作業が必要になる。 今の日本人にその気概があるだろうか。あれば明治維新のようなものが起こるかもしれない。無ければ清朝や李朝の末期のような陰鬱な時代が訪れるかもしれない。

そう言えばちょうどこのタイミングで、日本のGDPが世界第4位に転落したとのニュースがあった。 あのヨーロッパのお荷物と化しつつあるドイツに抜かれたそうな。 凋落ぶりにおいて、日本が勝ったというべきか。 因みに、4位の地位も安泰でなく、数年後はインドに抜かれることがほぼ確実であると言う。無論それだけでは済むまい。 かつて地球規模での繁栄を謳歌したスペインの現状などを見つつ、「あれぐらいに留まってくれれば良いが」と切に思う。

そう言えば何やら言う大臣が上のニュースに際し、「国際的地位というのは経済力のみに拠るものではない」などと、「憂慮しない」と言う態度を示したらしい。 まあそうなるだろう。 これは「憂慮しない=対策に乗り出さない」と言う意味である。 現体制の寄生虫が、自らの温床を保全したがるのは当然だ。

円安が止まらない。 政府の介入によって時折戻しつつも、円安のスパイラルは留まるところを知らない。 そりゃそうだ。為替介入などバッファにくらいはなろうが、国力そのものが衰退しているのだから。 強い円を取り戻したいのなら、産業を活性化するしかない。あるいは資源が見つかるとか。 今の日本は全くそこに手を付けていない。 残る外貨準備を、姑息に溶かし続けているだけ。

産業が空洞化し、人口動態が絶望的で、微かな望みであるインバウンドにおいても、例えばライドシェアさえままならず、このように骨抜きにされてしまう。 世界の先進国で何の問題もなく運営されているものが、最後まで規制されていた日本においてである。 何故か。タクシー業界の利権・既得権が強いから。 滅び行く社会の有り様をまざまざと見せ付けてくれる。

現体制に自浄を期待するのも酷である。 それはブルボン王朝にフランス革命をやらせようと言うようなもの。 無理に決まってる。




  • 2/14

「剣山の大蛇」をご存知だろうか。 徳島県の剣山で目撃されたと言う未確認動物。 ネッシーやイエティなどの、他の未確認生物と違って、基本的に目撃例は1973年5月の一例のみである。

剣山山中で町会議員ら数名が全長約10m、直径30cmほどの大蛇を目撃する。 更にその後の町役場による捜索で、大蛇が這った痕跡らしきものが発見されたと言う。 情報には若干の混乱・異同が見られ、また壮大な尾鰭が付いたような形跡もあるが、概ね以上のような顛末である。 ネッシーの信憑性の補強に「外科医」が一役買ったように、目撃者が町会議員と言う、ある程度社会的地位のある者であることが、この事件の信憑性を補強している。

実在した可能性は結構高いような気がする。 無論新種としてではない。 ペットか何かの大蛇(外来種など)が逃げ出したり遺棄されたりして、野生化したのではないか。 その後目撃例が見られないことから、繁殖できず、あるいは環境に順応できず、ほどなくして(一代で)絶えたろうか。

昨今でもペットの大蛇が逃げ出したりしてニュースとなることがあるが、当時そういう事例は少なく、またそう言う危険なペットの扱いもおおらかで、逃亡そのものが事件化されなかったのかもしれない。




  • 2/13

去年、福岡でストーカー殺人事件があったのだが、その当事者たちについて考えていた。 犯人については、関係者からの数々の証言が上がっているが、少年時代から暴行・傷害・恐喝など数々の非行歴があったそうだ。 成人の後も、短気、常に刃物を持ち歩くなど、素行の悪さが伝えられている。 まあ写真とか見ただけでもそんな感じに見える。

被害者の女性は、彼(犯人)と過去に交際していたそうだが、彼のどこが良かったろうか。 あのような残忍な殺し方ができる時点で、良心感覚が希薄だったことは疑う余地がなく、前頭葉などに何らかの異常を抱えていたに違いない。 愛とか与える気分であるとか、そういう言語の部分は壊滅的であったろう。

そういう人物と交際してしまう理由はどこにあろうか。 人は基本的に何らかの得を拾うもので、普通の人なら眉をひそめるような人物と交際する人にも、その人なりの理由がある。 彼女は、彼から何かが貰えるような気がしたのだろう。 当然彼の方も彼女から何かを貰うつもりだった。 与える気分が無いのだから。 二人は互いに「何かを与えること」をチラつかせて接近した可能性も濃厚にある。

「目の前の相手が素敵な人であるかどうか」と「その人からどのような利益を引き出せるか」は本来無関係なのだが、どうもそこを混同する人が多いらしい。 信用(支持)を失った政治家が、反射的に「減税」だの「賃上げ」だのと言ってしまう。 利を食わせれば素敵な人に映るとでもお思いだろうか。

大多数の普通の人が彼(上の殺人犯)のような人物を直感的に避けてしまうのは、彼に「与える機微(つまりは愛)」が絶無な点を嗅ぎ取ってしまうからだろう。 おそらくこれは「収奪される予感」と似て非なるもの(それはそれで嗅ぎ取れたりするだろうが)。 愛の不在を恐怖できるのは、その人に愛する感覚が備わっているからだ。 備わっていなければ、愛の不在など怖くもなんともない。 愛など現実でないのだから、その人の諸判断に影響を与えない。

人間を含むほとんどの動物には、収奪の動機が存在している。 生き物だからこれは仕方ない。 ライオンはシマウマを食うし、獲物を他の個体に与えていては生き残れない。 与えることを生存戦略とするのは、人類(の一部)のような高度な生き物だけ。

与える機微を持つ者にだって収奪の動機は存在している。 収奪の傾向性を持たないのではなく、理性でそれを制御しているだけ。 つまり「与える機微」は人類が言語によって獲得したものだが、「収奪の傾向性」は生得的に持たされているもの。 剥き出しの後者のみしか持たない者は、旧人類と言おうか、要するに人類の敵である。

あなたの側にもいるであろう「保身の権化」のような人々、あれも要するに与える機微を持たぬ故に生まれている。 他人への阿諛・懇願も命令・恫喝も、皆何らかの要求である。 それを持つことによって、その人はこの世界から「要らない存在」と化している。 上の事件の当事者らは、おそらく互いに収奪の動機でもって近付き、あのような終わりを迎えた。






  • 2/6

想像できることであれば、それは現実である。同時に、想像できなければ、それは現実にならない。

政治家、とりわけ国政に関わるそれは「全体への奉仕者」であるべきだが、現状どう見てもそうはなっていない。 何故か。それは「全体」が概念だからだろう。それを想像できない者にとって、現実でない。 彼らにとって、目に見える支持者・支援者は濃厚な現実だろうが。

「全体」が分からない者に「全体の奉仕者」が務まるわけがない。 彼には「全体の奉仕者であること」と「全体の奉仕者を自称すること」の区別がない。 皆さんの周りにも「仕事をすること」と「仕事をしたフリをすること」の区別が付いていない人はいるだろう。

シルバーデモクラシーと言われて久しい日本だが、確かに社会のリソースが病的にまで高齢者に割かれている。 何故かと言うと、それが票になるから。特別に悪辣な企てがあるとかいうわけでなく、ごく自然にそうなった。 積極的な利益誘導があったというだけでなく、高齢者の不利益となりそうな改革を避け続けた結果のどちらかというと不作為の所産だが、これは彼ら政治家の動機が「保身」であるから。 そしてそういう人らを有権者が選んできた。 そういう原理で動いている以上、人口動態がこんにちのようになれば、社会制度もこんにちのように歪むことはある意味当然と言える。

「全体」が想像の範疇にないのだから、彼らが人心を手懐けようと思えば、利を食わせることを第一に考えてしまう。 総理大臣が国会で連呼していた「経済」や「賃上げ」は、そういう人の断末魔の叫びと理解して良い。 必要な金があるなら税は止むを得ず、必要でない金ならビタ一文取るべきでない。 必要な金ならその必要性を説けば良いのに、つい反射的に「お前の懐にも金が入るのだ」と言ってしまう。 要するに彼らは私腹を肥やすこと(つまりは生存)しか考えておらず、語るに落ちている。

現総理大臣が悪人なわけではない。 彼の想像の及ぶ範疇が、ポストに相応しくないだけ。 イマジネーションの限界こそが、その人の限界である。

どうして政治がこんにちのような腐敗を招いたか。それは有権者がそういう人ら(「全体」を想像できない人)を選んできたから。 何故選んだか。それは有権者の側にも「全体」と言う着眼点が無いから。あれば誰を選ぶべきかも自ずと見えたはず。 つまり現状は、起こるべくして起こったこと。 政治家は全体の奉仕者たらず、全体こそが彼ら政治家の奉仕者となってしまった(無理矢理に)。




  • 2/2

前回触れたラジオの件、続報です。 NTS Radioってラジオ局で神田優花の「Mindscape」がオンエアされるそうです。 また古い曲ですが。

NTS Radioを知らなかったから調べてみたのだが、「イーストロンドンを本拠地に、LA、マンチェスター、上海を中心に、ベルリンや東京を含む世界30都市以上で放送されているミュージックチャンネル」だそうな。 ロンドン拠点の割りかし人気局っぽい。 ちょっと検索しただけでも関連記事がたくさん出てくるのだが、聴取用のオリジナルのアプリまであったりして、メジャーな局を匂わせる(ブラウザでも普通に聴けた)。 私は知らなかったのだけど、私は海外のラジオ局なんてほぼ知らない人なので参考になるまい。

リスナーもそれなりの数いると思われるのだが、多くの人に聴いてもらいたいですね。 因みに上のリンクはリマスター版です。 ウチの提供してる音源がそっちなので、先方が初出版を独自に入手したりしない限りオンエアされるのもそっちの方だと思われます。 以前、国内のコンビニのパワープレイで流れたのと同じバージョン。



NTS Radio内の「Lavender Kite Audio Research Hour」って番組で神田優花のMindscapeが扱われるみたいで、番組について調べたんだけど、月一(Monthly)の一時間番組、特定パーソナリティーが楽曲を紹介すると言う、ラジオとしては王道的なプログラムのようだ。 月一ってのは内容の更新頻度で、ラジオだから再放送も結構あったりするのではないかと勝手に想像。 無論、放送後にPodcastのようにオンラインで聴くことはできる。

前回ローテーションに入るって申し上げたのだけど、ちょっとよく分からない。 やり取りの上で「on rotation from our database」って一文があったのでそう思ってたんだけど、特定番組で扱われるのならローテーションには当てはまらない気がする。 この辺、私の英語力の問題か。

ローテーションって言葉の定義の問題なのだろうか。 日本人の私はラジオでローテーションって言われると、いわゆるパワープレイみたいなのを想像してしまうが。 まあローテーションと一口に言っても、重要なのはオンエアの頻度である。週一、4週間ローテーションとかだってあるしな。 とにかく形はさておき、曲が放送されるのは間違いなさそうです。




  • 1/31

昨日仄聞したニュースには、久しぶりに落胆させられた。 最高裁判決にて、マスク非着用者に対する差別的扱いが正当化されたそうで、曰く「当時の状況を考えれば違法ではない」のだと。 これは一裁判官の世迷言では済まされない。 最高裁判決なのだから判例としても残るし、この国は法治国家として、不可逆的に後退した。

どうしてこうなるのか。それは裁判官もある特性を持つ人種であるから。

裁判官は公務員であり、概ね高学歴である。 修羅の道に生きる者が、腕力にて収奪するのと同じく、それが許されぬ社会においては、ある属性の者が学力によって収奪する。 公金に寄生できる公務員と言う立場は、保身しか考えられぬ者には、特別な輝きをもって映るらしい。

保身のみに努める者にとって、今のこのスキームが崩れることは脅威である。 如何に日本の教育制度が間違っていようと、現試験制度・学歴社会の勝者たちが上り詰めて文科省などを形成しているのだから、現状が拡大再生産されることはあっても、本質的に改革されることなどない。 同じことが裁判と言う場においても起こってしまった。 醜悪極まりない。

与え合うことによって生まれる共同体感覚と、保身に努める者同士の「握り合い」は違う。 表面上似ていても、後者らの生きる道は、苦しみに塗れている。 信(Trust)に包まれていないからだ。 愛や夢を体感することなしに、紛い物の近代国家を作り上げてしまった民族の悲劇だろう。

私は、この社会は滅ぶと思います。 それが10年後なのか20年後なのか、そういうことは分からないけど、永続する原理を持たないから、早晩崩れるのは間違いない。


とまあここで話は変わるが、こんな日本を余所目に、神田優花の「Mindscape」が海外(ロンドン拠点)のラジオでローテーションに入ることが決まりました。 何やら人気の局らしいので期待。 詳細はまた後日お知らせしますが、とりあえず速報です。




  • 1/30

アーム奏法について、引き続き考えていた。 やはり原理上、ある程度構造をモデリングしないとリアルなものにならない気がする。 ちょっとしたベンドダウンとかビブラートのようなものなら、ピッチベンドで再現できなくもないと思うけど。

アーミング、調べを入れると意外と奥が深い。 しかし私はそれを極めたいわけではなくて、アレンジ上のアクセントとして使いたいだけ。 やはり演奏表現を再現するより、実際のアーム奏法をサンプリングして効果音として使う方が良いのかも。 結果として表現したいものに近い効果が得られるような気がする。






  • 1/26

何かが欲しい人が、金や力をチラつかせてその何かを貰う。献上する者はする者で、その金や力に目が眩み、何かを貰わんとして献上する。 ヤクザと乞食、修羅と餓鬼の違いなわけだが、両者を分けているのは力関係の水位に過ぎない。 両者の共通点は、与える機微を持たないこと。

何かにありつかんと献上した者は、接触によって満足な報酬を得られなかった、あるいは接触が終わった後、その接触をネタに一悶着起こせば更なる何かにありつけそうだと思ったら、当然火種を見つけては騒ぎ出す。 「あれは本意では無かった」などと。

離合を繰り返す人間関係を遠巻きに眺めていると、結局上のメカニズムで全部説明できてしまう。 この醜態が生まれてしまうのは、その当事者たちが、ある認知の中をさまよっているからで、法律などをこさえたところで、本質的に解消されないだろう。


話は変わるが、人間の感性・感覚について考えていた。 ある人に備わっていた感性が変質と言うか、劣化することはあり得るのだろうか。

私も長いこと創作活動をしているもので、随分昔に発表した楽曲などを好評価されることがある。「またあんな曲を作って欲しい」とか。 しかしその曲が既に存在しているのだから、そのツボを掘り起こす作業については、ある段階を終えている。 その曲は今でも未来にでも、変わらず鑑賞もできる。 今の私が別の曲を作るのは、過去の曲を構成する要素を美しいと感じた感覚を変質させているからではない。

私は「あの頃は良かった」とかいう感傷を持たない人である。 その唯一の理由は、今の自分があの頃の自分に劣ると感じないからだ。 私は進歩している。年を取って衰えているのでなく、より自分の完成形に近付いていると考えている。 衰えたのは私でなく、身体と言う入れ物に過ぎない。入れ物が別のフェイズにあるというだけ。

子供の頃の自分が今と違うのは、傾向性などという雑味が拭えていないからで、要は未熟さ故である。 殊更に美化するようなものでもないと考えている。 年経ることによって何かを失ったと感じる人は、認知が多少ズレているのではないか。

未熟さ故と申し上げたが、未熟さこそがその人の商品価値であった場合、それは当然時間と共に薄れるだろうが、それは言い方を変えれば、「アホさこそがその人の魅力」と言うに等しい。 年齢によって変質したと捉えられる人の正体はこれだろう。 守るべき価値もない。




  • 1/25

ツチノコについて。言わずと知れた未確認生物。 古くから目撃例が絶えず、記紀に既にその記述が見られるといい、和漢三才図会には野槌蛇の名で紹介されている。 ツチノコは実在するのか。 多数の目撃例(捕獲例すら)があるのと同時に、種としての同定例は絶無であるという。

まあ実在するだろう。それほどの目撃例があるのだから。 が、新種としてのそれはあるまい。 ある爬虫類の研究者だったかが(肩書きは失念した)ツチノコについて述べていたのだが、曰く「巨大な物、例えばヒキガエルか何かを丸呑みして、腹が膨れ上がったヤマカガシか何かではないか」だそうだ。 まあそんなところだろう。あるいは妊娠中だとか。

常識的に考えればそうに違いないのだが、全然それが定説となっていないように思える。 そういう未確認動物が存在してくれた方が面白いというのは分かるが。 かくいう私も、その手の未確認生物とかそういうネタが子供の頃から大好きで、いまだにその熱が冷めていない。 しかしCryptozoologyがオカルトと同一視されるのは残念。 あんまり荒唐無稽なネタは排除した方が面白くなると思う。

各地の自治体が、村おこしのためにツチノコ探しをイベント化していたりするのだが、種として存在しないのがほぼ確実だからか、安心して巨額の懸賞金をかけている。 仮に新種の爬虫類か何かが発見されて、発見者がそれを「古来言われているツチノコだ」と強弁したらどうするつもりなのだろう。 本当に億単位の懸賞金出すのか。




  • 1/24

ギターのアームダウン(&アップ)をサウンドプログラミングで表現することについて考えていた。 以前も同じことで試行錯誤していたのだが、またあらためて考え込んでいた。

基本的にはピッチベンドで表現するしかないわけだが、音程変化で繊細で、時にベンドのレンジが大きことがネックとなる。 しかもギターの6弦は、アームダウンの際、同じカーブで音程変化しないという。 つまり、コード(6和音)のアームダウンを厳密に表現するなら、1から6弦まで、6トラックを使う必要がある。 そしてそれは、(再現性という面では)大した効果を生まない。

やはりサンプリング系音色に、音程変化を加えるのに多少無理がある。 モデリング系の方が原理的に多少マシに思えるが、モデリング系の良いギター音源ってのを知らない。

アーム奏法は、単なるスライドやハンマリング・プリングの類とは、随分音程変化のカーブが違っていて、要はクロマチックで変化してくれない。 チョーキングの音程変化にやや近いが、あれにはベンドダウンが存在しない。 私は、ちょっと聴いただけでは本物と区別がつかないレベルの音を求めているのだけど、世の音屋さんたちはどうしているのだろう。






  • 1/23

私は自由に価値を置く。 だから、人間の愚行・暴走についても、ある範囲では認めたい。 体壊すことを承知で酒を飲む人はいると思うが、それは許されるべきだと思うのだ。その人の人生だし、その人の判断なのだから。

選択的夫婦別姓やライドシェア導入への反対意見を見ていると、その人らに何から教えれば良いのか、途方に暮れてしまう。 危険を察知するのなら、あなたがそれを選ばねば良いだけ。他人の選択肢を潰す権利などない。 ライドシェア推進派にライドシェアの安全性を立証する義務はなく、それを危険だから潰せと言う者こそが、周囲を納得させられる形でその危険性を立証せねばならない。 自ら選んだ方法で損失を蒙るのは自由だが、他人に何かを要求するのは自由でない。

この社会の住人は、とにかくお上による規制・ガイドラインの類が好きである。それに盲目的に従う。 お陰でレバ刺は食えなくなった。危険を承知で食いたい人がいても良かろうに。 レバーを生で食う人には、食中毒のリスクがついてまわるというだけ。

子供のスケジュールを習い事で埋め尽くすような親がいる。 当人は「子の為」と言い張るだろうが、子供の望んだものなど何一つ無い。 飼い犬を着飾らせて喜ぶ飼い主と同じ。 その子を愛しているのなら、外見にバッジをつけるより、その子に好きなものを選ばせてやれば良い。 この社会を覆っているある種の幼児性は、教育環境・学校制度に因る部分が大きいように思える。

私は、女性が女性であると言う理由で、即ち弱者として扱われる風潮には懐疑的だ。 「酒のせいで不本意な性交を行ってしまった」責任を、自分以外に求めることを是とする社会は、衰退するだろう。 拉致されてアルコールを血管注射されたとかならいざ知らず、大の大人が、自分の意志である場所に集い、酒を飲んだこと、あまつさえ性交に及んだこと。 その責を問われないのなら、その人は禁治産者か。公民権を行使する資格があるのだろうか。

こういうことを言うと「セカンドレイプ」とか言われたりするらしい。 もし私がそれを面倒臭がって、とってつけたような模範的意見表明を行うなら、きっとこの世界は(ホンの半歩でも)闇に近付く。 最後の最後まで、あなたの味方でいてくれる人はいなくなる。






  • 1/22

自民党の政党支持率が最低を更新したらしい。現内閣発足以来最低、とかじゃなく、1960年の調査開始以来最低なのだと。 凄いな。消費税を導入し、リクルート事件を起こした竹下内閣や、消費税を増税し、選挙で大敗した橋本内閣、あの不人気だった森(喜朗)内閣、それらですら達成できなかった数字を叩き出したという。

私は現総理大臣を、政治家としては穏健、悪く言えば凡庸な人だと思っていたのだが、憲政史上に残る人物となりそうな勢いだ。 まあ象徴的人物だとは思っていたけど。 しかし、ホームラン王取れる選手は確かに凄いのだけど、三振王取れる人もそれなりの選手に違いない。




  • 1/19

世に言うカリスマは、裸の王様になりやすい。周囲が囃すから。 取り巻きは基本的に保身のために群がっているのだから、王様の身を案じたりはしない。 王様はある時、梯子を外され、周りに誰もいなくなっていることに気付くかもしれない。

唐の太宗李世民は、玄武門の変で兄建成を殺し、皇帝位に就く。 変の直後、建成の側近である魏徴は太宗をこう罵った。 「俺はお前の兄に、あの弟を早く殺してしまいなされと建言していたのに、真面目に取り合わなんだ。故にこんにちのような事態を招いた」と。

太宗は激怒し、魏徴を捕らえるが、後に赦し、側近として重用するようになる。 周囲の者らは訝しげに「何故あの者を殺してしまわなかったのですか」と問うたのだが、その際太宗はこう言う。 「直言して憚らぬ者は得がたいからだ」と。

その通り、立場が皇帝などであれば、阿諛追従する輩など、実に得やすいということ。 直言者を得るのは難しく、自分を律するのは更に難しい。

王様が喜ぶからと、取り巻きはいつしか女衒と化し、女の献上に奔走するようにもなる。 まぐわった女が礼の一つでも言おうものなら、王はそれを心の底からの感謝と思い込む。

私自身は、その王をかわいそうだと思う。 彼は愛や信と言う感覚に包まれておらず、周りにいる、自分を慕っていると言う後輩だとか性を差し出す女性だとか、その全ては心の遠い場所を漂っているだけのもの。 だから窮した時にも、それらは心の側にいてくれない。 金や名誉なんかより、信や愛は、余程に得がたい。 金なんて無くたって生きて行けるけど、愛が無かったら生きて行けない。 この先一歩たりとも生きて行けない。

石田三成に仕えた島左近は、結局関ヶ原で落命したのだから、富が目当てであったのなら、賭けには負けたことになる。関ヶ原で東軍に寝返った多くの武将のように、累代の家臣でなし、彼も裏切れば良かった。禄が目当てだったならそれが正解だ。 信が目的であったなら、彼こそが勝者だが。

我々の本当に欲っすべきものが、金とか性とかその程度のものなら、そんな人生も悪くないかもしれない。 しかしそうではない。 私は、煌く星になりたいわけでも、星を手に入れたいわけでもない。 私は、星がその心に映している世界、星の悲しみを知りたい。 知るために今日も音楽を作り続けている。




  • 1/18

才能とは、何かを面白がれる能力のことである。 ピカソの何が凄いか。「絵の上手さ」ではない。絵を描く作業を面白いと思えたこと。 それが無ければ、絵などいくら上手かろうと続けて行けない。

これを踏まえた上で言うが、コメディアンとは大変な仕事だ。 コメディアンの才能は、才能としての純度が高い。 本人が何かを「面白い」と感じることこそが、面白さの唯一の源泉である以上、才能が現れた際、周囲はその気分を害さぬよう努めなくてはならない。

コメディアンは生身の人間である。私生活での困りごとなども絶えなかろう。 想像してみて欲しい。 体調が悪かろうが恋人と別れようが身内に不幸があろうが、彼は常にバカ話をして周りを笑わせねばならない。 この苛烈さが分からないのなら、その人は想像力が欠けている。

「面白いネタ」なんかが面白さの秘訣であるのなら、気の利いた作家にネタを考えさせて、コメディアンはその台本を読めば良い(そういう例はいくらでもありそうだが)。

人気タレントは多くの人にとっての飯の種でもある。 周囲はその機嫌を取るべく常に奔走する。周囲の動機は、詰まるところ保身である。 だから日本社会は、構造的に「カリスマ」のような者が出やすい。

ここで言うカリスマとは、世界史上の英雄、例えばチンギス・ハーンやアレクサンドロスを指さない。 一番分かりやすい例は「天皇」だろう。 日本人は、原理的に天皇を生んでしまう。 各界に天皇は生まれるが、天皇業の日が浅いと、条件面でのほころびによって、多くは高転びに転ぶ。 この点、本家の天皇はさすが歴史相応に堅牢だ。

「条件」について敷衍したい。 コメディアンがその面白さでもって祭り上げられているのなら、とりあえずは安泰である。面白さという理由があるのだから。 しかしその「面白さ」は、大変儚い、センシティブなものである。 実は内包するそれが跡形も無く崩れ去っていたとしても、外見はその人そのものであったりするから、周囲はおろか、本人ですらその事実に気付けなかったりする。 あらゆる相場に言えることだが、実体と市場価値は常に連動しない。しかし乖離が甚だしいと時に暴落する。 ある時何かを面白いと感じていた彼が、今はもうそれを面白いと感じられなくなっていても、周りがそれに気付くのにはタイムラグを要した。

今話題の某コメディアン。私は若い頃の彼を面白い(才能がある)と思っていた。 ある時、随分昔にある番組で喋っていたのと同じ話を別のある番組で語っていたのを目にしたのだが、彼が昔ほどそのエピソードを面白いと感じていないことがありありと見て取れた。 同時それを「マズい」とも感じた。 彼はその話が受けた(自分も面白いと感じていた)と言う記憶を頼りに喋っていた。

才能が枯渇していても、立場は同時進行で消滅したりしない。 周囲がそんなに敏感にそれを察知できないし、人気タレントは産業でもある。それにぶらさがって収入や立場を得ている者がたくさんいるから、一旦祭り上げられたそれは容易に退けない。 本人が引き際に気付くしかないのだろうけど、それは難しいようだ。

その人は間違いなく才能の持ち主であったのだから、その人の中からまたその才能のキラメキが見られるのではないか、と期待して彼を見つめていた人は多かったのではないか。 ある日を境に突然100がゼロになるわけではないので、片鱗は伺えたような時期もそれなりにあったはずで、だからこそ多くの人が損切りのタイミングを逸してしまった。




  • 1/17

ある大御所コメディアンの醜聞が世間を騒がせているようだ。 旧ジャニーズ事務所の一件と言い、ここ最近立て続けである印象だ。

起こるべくして起こっている事態なのだろう。 日本の芸能と言うスキーム・構造と、それを支える企業活動との原理上の摩擦が起こっている。 日本人がかようであるからこそ、日本の芸能・テレビ業界はこんにちのようで、日本人がかようであるからこそ、何十年も経済成長ができず、大企業は海外に活路を見出し、海外マーケットとの相性の悪い問題を抱えた業界と距離を置きだしている。 これは神意で、何かが崩れる時・生まれる時、には基本的にこういう原理が介在している。

ジャニーズ問題についても、日本の民放・地上波は、「タレントに罪はない」などと言う珍妙な理屈で、事務所との取引継続を宣言したのだけど、ある面における生き残りを放棄したと見て良いかと思う。 それほど深刻な共犯関係にあったと言うこと。語るに落ちている。

上のコメディアンのこと。 事態はいずれある程度の落ち着きを見せるに違いないが、その後どうなるか。 影響は避けられないにしても、本人に表現への意欲があるのなら、活動を続ける場所はあるだろう。 本人に本当の才能があり、それを求める人が一定数いるのなら、商業的にも成り立つはずだ。 ただ、才能も意欲もなく、立場だけを持っていたのなら、この針の一穴にして楼閣は跡形も無く崩れ去るかもしれない。

醜聞が出た直後、事務所だかから「記事は一切事実無根である」との声明があった。 私は真実を知らないし、記事すらも読んでいないのであるけど、言われているような怪しげな会合は開催されていたろうと思う。 合意のあるなしのような争点に落ち着くと思われるが、詳細が明らかになるだけでタレントには不利だろう。 一つの時代が終わったということか。

ついでに。 私は女の人の言う、過去の性交渉についての被害に関しては、際限なく主張を認めるべきでないと思っている。 いい大人が自己の判断で行ったことには責任がついてまわる。 まあ上のコメディアンについて同情の気分は無いけど。






  • 1/16

AIを使ったオーディオの分離プログラムってのを使ってみた。 2Mixからボーカル・上モノ・ベース・ドラムなどの各パートに音を分割する。 私が使ったのはWebサービスのようなもので、ブラウザから実に簡単に使えた。

その精度であるが、正直驚いた。 ボーカルパートのコーラス(ハーモニー)部分を分離できなかったり、微量ながら全体的にゴミのようなノイズが乗っていたり、まあ改良の余地はまだあるものの、今までのEQや逆相を駆使したようなものとはレベルが違う。 こういう技術って日進月歩だろうから、今後更に精度は上がると見て良い。  まあ私にそんなに使い道があるのか分からないけど。






  • 1/10

ピカソは、ベラスケスのラス・メニーナスを、独自の解釈で描いている。 音楽で言えば、カバーというよりオマージュ、リミックスというような、極端な改変を伴うもの。 検索すればすぐ出てくると思うので、知らない方は見てみたら良いかと思う。

原形があるのだから、結果あのような完成形になるに、ピカソの脳内での演算を経ているのは明らかなわけだが、その変遷をあれこれ想像してみたりしていた。 おそらく他のピカソ作品においても、類似のプロセスが存在するはずだが(同一人物の思考を経ているのだから)、原形が確認できないから、変遷を想像するよすがも薄い。

音楽作品においても、似たようなプロセスは存在する。するに違いない。 例えば転調・移調やテンションコード、リハーモナイズの類にだって、その原形となるプロトタイプが存在するはずだ。それが作者の脳内にであっても。 そこで生じた変化・屈折のようなものこそが、作者固有の思考プロセスになる。 芸術の本質はきっとここにあり、結果としての作品などは一つのフェイズに過ぎない。




  • 1/9

現職の国会議員が政治資金規正法違反と言う、いわば破廉恥罪で逮捕されたそうだ。 単に悪い人が悪いことをしたからこその逮捕劇であるのなら、社会にとってさほどの問題ではない。 肉食動物が草食動物を捕食するのは悪行ではなく、宿命である。 政治業の本質が、汚職を宿命としているのなら、それは残念なこと。

政治家の世襲が、諸悪の根源のように語られることがあるが、私はそこについては容認する気分が強い。 一山当てた地方の事業家が、その栄達の果てに政治家を選ぶケースなどよりはマシに思える。 濁世の物事は「マシさ」の選択であったりするから。

私は音楽が好きだからこそこういう生き方を選んだのだけど、(失礼ながら)昨今のJ-POPに全く魅力を感じなくて、ある時期、自分の感性が枯れかかっていることを懸念したが、そうではないことに気付いた。 彼ら(J-POP関係者)の動機を好ましく思えないだけだった。

これは根の深い問題だ。 動機が好ましくないというが、その動機の強さこそがその世界で成功するための大きな適性の一つであったりもするから。 やはり私は、一々のミュージシャンが嫌いなのではなく、構造を嫌っているのだと思う。 だから、その人たちと席次を争いたくもない。

人間の本質とは、その人が「何を持っているか」とか、「どういうステータスにあるか」とかではない。その人が「何ができるか」ですらない。 その人が「何をやろうとしているか」である。 どこに向かって歩いているか、それこそがその人の本質である。 だから私は、何も持たなくとも、正しい方を向いて歩いているのならそれで良い。